基地内大学に通い、外資系NPOに転職(ヒストリー2)


やっぱり私の強みは英語?貴重な夢への一歩

米軍基地内の大学に通っていました

そんなある日、地元の新聞に英会話サークルの案内を見つけました。多分、このサークルに入会していなかったら、私は長年の夢(=東京で働く)を掴むこともできなかっただろうし、今の仕事(=キャリアコンサルタント)にも就いていないと思います。人生わからないものですね(笑)。

サークルメンバーの一人から「沖縄県が、基地内大学の編入試験を実施するらしい。受けてみたら?そう強く薦められ、軽い気持ちでトライ(笑)。

 

すると合格してしまったのです。

 

当時の上司には推薦文も書いていただいたので、本当に感謝しています。そして私は大学に通うことを決めました。

仕事が終わった後、カデナ基地へと車を飛ばし、週に2回(時には4回)2時間の夜間授業を、アメリカ人と共に受けるという忙しい生活が始まりました。

 

授業の内容は、とても新鮮でした。同期のメンバーはほぼ全員が社会人でしたが「大人になって学ぶって本当に楽しいよね」と何度も語りました。宿題は大変だったけど(エッセイのクラスで3度、教授にほめられたのがとても嬉しい思い出で、酒に酔った米軍人に車をぶつけられ大破されたのは悪い思い出 笑)。

 

 

アメリカ人のマネジメント&日本人従業員との間に挟まれ…

基地内での大学生ライフを楽しみながら、またしても転職のチャンスが舞い降りてきました。

 

ご縁があって、基地内のNPOでツアーガイドの職に就き、米軍人&ファミリーを沖縄の観光地に連れて案内する日々を送りました。その後、<ツアーコーディネイター><企画職>と続き、総務に入った後は<会計職>に昇格し、最終的には<ディレクター付きのアドミン・アシスタント>となりました。

 

総務に入り、日本人の給与も管理することになったのですが、そこで私は彼女たちと雇用主であるアメリカ人のマネジメントの面々と調整に頭を抱える日々を送りました。

 

というのも、私が入社するまで、日本人従業員は一度も年次有給休暇を繰り上げしておらず、数人のパートタイマーは、最低賃金以下の時給で働いていても誰も声をあげないという状態だったからです。

 

 

それでもめげずにひたすら改善、改善、改善

そこで、私は労働基準法の該当する部分を自分なりに翻訳したり、自分の働きぶりを表現しない日本人従業員の方々がいかに組織に貢献しているかレポートを仕上げ、マネジメントに報告しました。

 

その結果、数名の従業員の時給を上げること、有休の繰り上げの承諾を得ることに成功。また、これをきっかけに日本人従業員のことを真摯に考えてくれた組織に貢献したいと助成金も獲得しました。

 

今、思い返してみてもこれまで一番楽しい職場はここでしたし、どんな悩みも話せる親友を得たので、ある意味私の青春時代でしたね(笑)。

 

そんな思い出深いNPOの経営状態が、円高(当時1ドル80円台)の影響で厳しくなっていることは、財務を見ている私の目には明らかでした。「もう何年も働けそうもないな」と考え始めた矢先、また転機が訪れたのです。